2013.
01.
20
11:11:29
やってきました滋賀県湖北!(1週間前になりますが…)
私の好きな地域に共通していること
「自分たちは、そのままのカタチで、次の世代に受け継いでいく。それが、今を生きる自分たちの責務・使命・なすべきことなんです」
ニュアンスは違っていても、そこで生きて来た人も、そこに移り住んだ人も、携わる人も、「今あるカタチを、次の世代に繋ぐ」それを本当に意識されている。
さて、その好きな地域の一つが滋賀県湖北地域。
この地域は、色々ご縁があるところ。
移住支援を本格的に始めたばかりの頃の相談者の希望地だったり、
新卒のときの同期の地元だったり、
うちの上司もよくこの地域の寺巡りをしていたり、
移住支援を通して出会う方々が素敵で、時々足を運んでみる。
昨年度の田舎暮らしフェスタで「山岳仏教の里・鶏足寺と里山めぐり」に参加した時に、この地域の寺院に興味を持った。
というのも、京都の寺院のように煌びやかだったりする訳ではない。
人々の生活の一部にほとけさまがいるというか、ほとけさまの近くで人々が生活をしている。
そして、美しい洗練された仏像等だけではなく、目を引くのは焼けたホトケ、朽ちたホトケ、腕などがなくなっているホトケだった。そうしたほとけさまを、地域の人が自分の村のほとけさまとして大切にされてきた。
そして、案内をしてくださった地域の方が、自分たちがほとけさまを「守っている」のではなく、「守らせていただいているのだ」と仰ったことが印象的だった。
この地域は天台宗系山岳仏教の聖地だった。天台密教の祖の最澄もここで修行し、多くの修行僧がここにはいた。けれど、戦国時代に多くの寺々は戦火に巻き込まれ、僧侶たちは山を去った。けれど、そこに残された寺院とほとけさまは、村人たちの手に渡って、守り仏として共にあった。
週末、改めて回らせて頂いたときも、みなさんが「ほとけさまを守らせていただけて大変ありがたいことです」と、『守らせていただいている』とほとんどの方が表現なさっていた。
ここは、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳がある。戦渦に巻き込まれながらも、ほとけさまを焼き払われないよう、村人たちは川底に沈めたり、土に埋めたり、中には自分の原を割いて小さなほとけさまをかくまったというエピソードもある。本当にそうしたかは分からない。
1日目は長浜市街地の寺院をメインに自転車で回った。
夕方、マチナカの黒塀のある路地を散策していると、なんか素敵な本屋さんを見つけて思わず入る。そこで出会った本がまた素敵で思わず購入して、あっという間に読み終えてしまった。
「湖北のホトケたち 人々の祈りと暮らし」
これは仏像紹介の本ではない。そのほとけさまに関わる人々が主役の本だった。
そして、次の日レンタカーを借りて山村や駅から距離のある寺院に行こうと思っていたところには最初入っていなかったのですが、この本を呼んで急遽赤後寺に伺うことにした。赤後寺の千手観音さまは、48本あるはずの腕が12本あられません。12本しかない腕も手首から先があられません。川に沈めた時に流出してしまったのかもしれない。本当に、息を飲むお労しいお姿だった。けれども、戦争の戦渦の中にあった村人たちを守るために、その身を犠牲にされてきた。そう、慈しむように村の総代のお一人の方が説明してくださった。姿形は変われども、その存在を守ろうと皆必死だった。そして、そのほとけさまは今も受け継がれている。
高月町渡岸寺の向源寺にいらっしゃる国宝の十一面観音像さまも、土中に隠されて難を逃れ、千年近くの時を超えても、こうして守り繋がれている。説明して木田去ったのも、村のみなさん。みんな、交代で守られている。何百年もずっとそうしてきた。国宝とされるとき、ほとけさまは「ムラのみんなの」ものだった。けれども、個人のものを国宝にはできないと、向源寺の預かる所となった。けれども、やっぱりムラのみなさんで御守りされている。
冷水寺は、焼けただれられてしまったほとけさまがいらっしゃる。どんな姿になっても、何百年もムラを守って来てくださったほとけさまを、ムラの人もまた御守りし続けるだけなんだ。そう、胸が熱くなった。
防犯センサーが壊れた日、修理会社はすぐに来れないと言った。たかが1日、されど1日。ほとけさまに何かあってはならない、そう当時の氏子総代の村人は毛布と寝袋を持ち込んで、冷える本堂でほとけさまと共に過ごした。
村のほとけさまが盗まれた時、皆で積み立てていた300万円を情報提供の懸賞金に当て、何とか探し出した村もある。
煌びやかな寺院より、私はこうした人々の生活に根ざした寺院が好きだ。
その歴史はさることながら、そこでほとけさまと生きる皆さんとの対話を通じて、その有り難さ、温かさ、厳かさを感じる。
何と言うか、ひとつひとつのエピソードがぐっとくる。
そして我が身を反省する。
何かについて祈る時、自分のことばかり、欲ばかりになっていないか。
「ありがとう」と感謝する気持ちを忘れていないか。
そして、携わる移住交流、復興支援について考える。
単なる人の誘致合戦は、ムラの人が、マチの人が望んで来たカタチですか?
外部人材の活用もいいけど、まずは地域がどうあるべきか話し合いをしていくことがまず最初。
その発信をし続けていかなくてはなあ。
やり方ももうちょい考えます。
出会ったほとけさまだけでなく、
当番制で対応してくださった村の皆様方に、とても感謝し、
今日を、明日を生きていきたいと思います。
朝、ありがとうございます。
夜、今日も無事に過ごせました、ありがとうございます。
そう手を合わせていきたいです。
私の好きな地域に共通していること
「自分たちは、そのままのカタチで、次の世代に受け継いでいく。それが、今を生きる自分たちの責務・使命・なすべきことなんです」
ニュアンスは違っていても、そこで生きて来た人も、そこに移り住んだ人も、携わる人も、「今あるカタチを、次の世代に繋ぐ」それを本当に意識されている。
さて、その好きな地域の一つが滋賀県湖北地域。
この地域は、色々ご縁があるところ。
移住支援を本格的に始めたばかりの頃の相談者の希望地だったり、
新卒のときの同期の地元だったり、
うちの上司もよくこの地域の寺巡りをしていたり、
移住支援を通して出会う方々が素敵で、時々足を運んでみる。
昨年度の田舎暮らしフェスタで「山岳仏教の里・鶏足寺と里山めぐり」に参加した時に、この地域の寺院に興味を持った。
というのも、京都の寺院のように煌びやかだったりする訳ではない。
人々の生活の一部にほとけさまがいるというか、ほとけさまの近くで人々が生活をしている。
そして、美しい洗練された仏像等だけではなく、目を引くのは焼けたホトケ、朽ちたホトケ、腕などがなくなっているホトケだった。そうしたほとけさまを、地域の人が自分の村のほとけさまとして大切にされてきた。
そして、案内をしてくださった地域の方が、自分たちがほとけさまを「守っている」のではなく、「守らせていただいているのだ」と仰ったことが印象的だった。
この地域は天台宗系山岳仏教の聖地だった。天台密教の祖の最澄もここで修行し、多くの修行僧がここにはいた。けれど、戦国時代に多くの寺々は戦火に巻き込まれ、僧侶たちは山を去った。けれど、そこに残された寺院とほとけさまは、村人たちの手に渡って、守り仏として共にあった。
週末、改めて回らせて頂いたときも、みなさんが「ほとけさまを守らせていただけて大変ありがたいことです」と、『守らせていただいている』とほとんどの方が表現なさっていた。
ここは、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳がある。戦渦に巻き込まれながらも、ほとけさまを焼き払われないよう、村人たちは川底に沈めたり、土に埋めたり、中には自分の原を割いて小さなほとけさまをかくまったというエピソードもある。本当にそうしたかは分からない。
1日目は長浜市街地の寺院をメインに自転車で回った。
夕方、マチナカの黒塀のある路地を散策していると、なんか素敵な本屋さんを見つけて思わず入る。そこで出会った本がまた素敵で思わず購入して、あっという間に読み終えてしまった。
「湖北のホトケたち 人々の祈りと暮らし」
これは仏像紹介の本ではない。そのほとけさまに関わる人々が主役の本だった。
そして、次の日レンタカーを借りて山村や駅から距離のある寺院に行こうと思っていたところには最初入っていなかったのですが、この本を呼んで急遽赤後寺に伺うことにした。赤後寺の千手観音さまは、48本あるはずの腕が12本あられません。12本しかない腕も手首から先があられません。川に沈めた時に流出してしまったのかもしれない。本当に、息を飲むお労しいお姿だった。けれども、戦争の戦渦の中にあった村人たちを守るために、その身を犠牲にされてきた。そう、慈しむように村の総代のお一人の方が説明してくださった。姿形は変われども、その存在を守ろうと皆必死だった。そして、そのほとけさまは今も受け継がれている。
高月町渡岸寺の向源寺にいらっしゃる国宝の十一面観音像さまも、土中に隠されて難を逃れ、千年近くの時を超えても、こうして守り繋がれている。説明して木田去ったのも、村のみなさん。みんな、交代で守られている。何百年もずっとそうしてきた。国宝とされるとき、ほとけさまは「ムラのみんなの」ものだった。けれども、個人のものを国宝にはできないと、向源寺の預かる所となった。けれども、やっぱりムラのみなさんで御守りされている。
冷水寺は、焼けただれられてしまったほとけさまがいらっしゃる。どんな姿になっても、何百年もムラを守って来てくださったほとけさまを、ムラの人もまた御守りし続けるだけなんだ。そう、胸が熱くなった。
防犯センサーが壊れた日、修理会社はすぐに来れないと言った。たかが1日、されど1日。ほとけさまに何かあってはならない、そう当時の氏子総代の村人は毛布と寝袋を持ち込んで、冷える本堂でほとけさまと共に過ごした。
村のほとけさまが盗まれた時、皆で積み立てていた300万円を情報提供の懸賞金に当て、何とか探し出した村もある。
煌びやかな寺院より、私はこうした人々の生活に根ざした寺院が好きだ。
その歴史はさることながら、そこでほとけさまと生きる皆さんとの対話を通じて、その有り難さ、温かさ、厳かさを感じる。
何と言うか、ひとつひとつのエピソードがぐっとくる。
そして我が身を反省する。
何かについて祈る時、自分のことばかり、欲ばかりになっていないか。
「ありがとう」と感謝する気持ちを忘れていないか。
そして、携わる移住交流、復興支援について考える。
単なる人の誘致合戦は、ムラの人が、マチの人が望んで来たカタチですか?
外部人材の活用もいいけど、まずは地域がどうあるべきか話し合いをしていくことがまず最初。
その発信をし続けていかなくてはなあ。
やり方ももうちょい考えます。
出会ったほとけさまだけでなく、
当番制で対応してくださった村の皆様方に、とても感謝し、
今日を、明日を生きていきたいと思います。
朝、ありがとうございます。
夜、今日も無事に過ごせました、ありがとうございます。
そう手を合わせていきたいです。
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