全国の田舎大好き女子です。 普段は、田舎暮らしアドバイザーとかしていたりしていなかったり。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Posted by ほしくみこ
 
[スポンサー広告
飯舘 カーネーションの会の皆さんからのお話し
飯舘村で避難生活を送るお母さんたちから聞いた話をまとめた文章です。皆さんから聞いた話をとりとめなくまとめたものだから、文章がなっていないところもあるけれど、三月に聞いた、彼女たちの生の声。
なんか支援したい、ボランティアしたい人、3.11に対する感心が薄れつつある人。ちょっと現場の声として受け止めてみてください。今、現在進行形で、復旧にすら向かえていない地域も、人も居る。暗いものをかかえたまま、それでも踏ん張る人がいるんです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

東日本大震災から1年が経過する頃、とあるプロジェクトで、被災地へのボランティアのニーズ調査に関わりました。

当事者でない以上、人はよくも悪くも忘れます。
それは戦後の教育にも起因するし、報道のあり方にも起因するのではないかと考えますが、今回は一旦それを置いておきます。

そして、やはりそれを風化させてはいけないのだと強く感じます。
そのためには、笑顔311さんのように、今その地域で起こっている事を、伝え続ける事の重要性を実感します。

実際に、自分自身が現地に足を運ぶ中で、復興に向かっている地域もあれば、未だに先の見えない不安の中で、何とか踏ん張ろうとする人、押し潰されそうな人、気丈に振る舞いつつ、重いものを抱えている方がいます。苦しみは、不安は、その形は一つじゃない。

これから先に記すのは、星が出会った一部の方々の本当の想いです。
皆にボランティアを強要する訳じゃありません。何かしてあげる=してやる、それが被災者の方の負担になることだってある。

「人の心に寄り添える支援を」
飯舘村のあるお母さんに言われた一言だった。自分に何ができる、じゃなくて、まずは、彼らの心を知る事から始まるのだと思う。そして、その想いに、苦しみに、こたえていくために、自分に何が出来るのかを考える。押し付けにはなってはいけない。そこが出発点なのではないだろうか。

こう書いていて、気付く。地域づくり、地域での起業、地域コンサルも一緒だということに。まずはその地域が抱えている問題、現状に触れ、一緒に考えていかないと、一人よがりの地域活性プランになってしまうことも多々あるわけで。やはり原点回帰させられた。

ということで、飯舘村のあるお母さんたちからの話です。インタビューした内容を取り留めなく書いたのですが、よろしければご覧ください。

「ボランティアの在り方  被災者の自立に繋がる支援」
~被災者の心に寄り添うボランティア 避難者の切なる願い~

東京電力福島第一原発事故により、「計画的避難区域」に指定された福島県飯舘村全村避難を強いられている。村民は相馬市、福島市、伊達市、国見町等の仮設住宅や借り上げ住宅に避難をしている。
 その仮設住宅の1つが松川工業団地第一仮設住宅である。ここに、「いいたて カーネーションの会」がある。この会は2人の女性の出会いによって誕生した。1人は松川第一仮設住宅の管理人のSさん。もう1人は81歳の裁縫名人のUさん。村にいた頃のUさんは高齢ながら毎日農作業の手を休めず、また村の皆から頼られる存在だった。

■住民の盛り上げ役に「Sさん」
 Sさんは松川第一仮設住宅の管理人だ。全村避難をせざるを得ない状況で、みんな気持ちが滅入っている、住民を盛り上げてやってくれないかと菅野村長に頼まれて引き受けた。
仮設住宅のうち、3分の1が一人暮らし世帯だ。「皆、静かに我慢しながら暮らしている」とSさんが表情を曇らせた。話を伺っている間、皆さんがしきりに「帰りたい」と繰り返していた。いつまで続くか分からない、農業も再開できない避難生活の中で、認知症や鬱になる人が増えた。この現状を何とかしたいという想いから松川第一仮設住宅では自治会が立ち上がり、Sさんが管理人に任命された。Sさんは、入居者にまずは部屋から出てきてもらえるよう、芋煮や生き生きサロンなど、皆が顔を合わせる場を作ることから始めた。
 飯舘村の主な産業は主に農業だ。多くの人が農業に従事していたので、皆、畑はできるだろうと思い、仮設住宅の住民たちに声を掛けた。おあつらえ向きにも仮設住宅の敷地内に直売所もできたので、そこに野菜を作って販売できれば活気づくのではないかと考えた。だが、畑を貸してもらえても、住民の腰は重たかった。松川第一仮設住宅の平均年齢は70歳。数少ない若い人は仕事に復帰しているため、日中は高齢者ばかりになってしまう。仮設住宅から少し離れた畑までの移動も、機械を操作することも難しいという声が上がり、行き詰った。

■裁縫名人 Uさんとの再会
Uさんは、最初からこの松川第一仮設住宅に入った訳ではない。長男家族が避難する福島市渡利地区の借り上げ住宅に身を寄せていたが、何をする気も湧かず、毎日天井を見ながら部屋からあまり出ることもなくただ日々を過ごした。「村に居た頃は毎日忙しかった、こんな毎日を過ごすくらいならば―」、そう部屋の丈夫なカーテンレールを見て、そこに紐を吊るして首をひっかけて死のうと思ったこともあったそうだ。それに家族が気付いた。子どもは家族と一緒であっても、地域の誰とも接することもなく家の中で留守番をして過ごすのではなく、村の人たちが暮らす仮設住宅に入ることを勧めたのだ。だが、Uさんは「自分を姥捨て山に捨てられる」と絶望してしまった。
その後、孫から息子夫婦との話し合いの中で、自分を気遣ってくれたことを知り、Uさんは松川第一仮設住宅に一人で住むことを決めた。松川第一仮設住宅にはUさんの実の兄2人も避難していた。「普段笑うことが滅多になかった兄が笑ってくれた、それが嬉しかった」
Uさんは村の頼れる存在だった。Uさんが仮設住宅に移ったことは瞬く間に広まり、仮設住宅には村の人が入れ替わり立ち代わりやってくるので、Uさんは疲れてしまい、仮設住宅の中に閉じこもるようになった。
引っ越してきたUさんを心配して、Sさんは会ってもらえなくても毎日毎日足を運んだ。「Uさん、いっかい」と玄関から声を掛ける。その度に、家の中から「ダメだぁ、会いたくない」と両手でバツ印を作って出てきてもらえなかった。

飯舘村で生活していた頃から、Uさんは裁縫名人として知られていた。いつも「までい着」という着物をリサイクルした服をおしゃれに着こなしていた。皆農作業は難しいのであれば、手仕事ならばできるかもしれない。ならば、「動きやすそうで着心地の良いまでい着を皆で作ろう、Uさん、作り方を教えてくれないかい」と、Uさんは断り付けても誘ってくるSさんに、とうとう根負けしてしまった。
だが、までい着を作るための着物がない。すると、Sさんは毎週来てくれていたジャーナリストの方に相談したところ、彼は周囲の人間に声を掛けて集めた着物を送ってくれた。また、取材に何度も足を運んでいた新聞社にも着物を集めて欲しいという記事を書いてもらうことができ、その記事を見た全国の人がたくさんの着物を送ってくれて、いいたてカーネーションの会が発足した。

■いいたてカーネーションの会 支援の輪
 自治会長の名前で、「までい着をつくろう」という案内を出したところ、20人から申し込みがあり、予想以上の反響にSさんが驚く。折角だから自分たちの着る分だけでなく、販売もしてみようかと盛り上がる。皆がまでい着づくりを頑張ってくれるなら、販売は任せて、とSさんは言ってしまった。
その裏で、Sさんは心が参っていた。皆が盛り上がってくれたのに、本当に売ることができるのだろうか。売り方も分からない、インターネット上で販売することも難しい。Sさんはまたボランティアの方に相談してみると、彼は大手商社を紹介してくれたり、仲間内の忘年会があるので、そこに売りに来ないか、と言ってくれた。までい着だけではなく、冬に差し掛かってくるので綿入れ半纏も作ることになった。できたのは、半纏を60着、までい着を50~60着。そして、それは全て売れた。
「売れたことではなくて、その場を用意してくれた人の心、買うことで応援してくれる人、支援したい心が嬉しかった」
だから、もっと縫い目も丁寧に、精度を上げていきたいと思った矢先に、そごうでの販売会の話が具体的になってきた。先方からの要望は「品物はもっとしっかりしたものに、そしてもっと数を多く」。3月10日、11日に、首都圏の大手百貨店、そごう柏店で製品販売会を開催することが決まったのだが、このままでは数を用意できないので、飯舘村の住人が避難している他の仮設住宅(相馬市、伊達市、福島市飯野町など)に声を掛け、生地をわけて、帽子やお手玉、パッチワーク、コサージュなどを作ってもらい、提供してもらった。

■支援に応えていくこと
 イベント当日、誰も来てくれないのではないかという不安の中、開店と共にお客さんが続々と集まった。その数、2日間で1400人。用意したまでい着と半纏と小物が全てなくなった。中には、Uさんが着ているものまで欲しいというお客さんもいたという。避難している人、「自分たちのせいで本当にすみません」と声を掛ける人、着物を提供してくれた人などが次々に皆さんに声を掛けた。イベントは大成功だった。
「私たちがこう活動できるのは、本当にみんなのご支援なんです」
そごうには有志でバスを出してくださった方々がいる。運営にはみんなボランティアで手伝ってくれた。飯舘村の皆さんの心に共感してくれるよう、そごうもセブン&アイもバックアップし、少し田舎の雰囲気も併せ持つ柏店での開催を決めてくれた。当日はそごうのスタッフの人たちが手伝ってくれた。銀行マンも、有名な方も、自分の身分を明かさず、カーネーションの会が好き、応援したいと無償で手伝ってくれた。売れたものの収益は全ていいたてカーネーションの会に入るようにしてくれた。

「でもね、甘えてばかりはいられない。これからは自分たちの手でやっていく。お返しを考えたけれど、皆に応えていくには、自分たちが元気で続けていくこと、向こうもそれを望んでいるんです」そう、Sさんは言った。ペースは落とし、楽しくやることが大切だ。

本当は3月のイベントが終わったら疲れたので休もうと思っていた。一人は80を過ぎた老夫婦。ご主人が夜遅くまで縫物をする奥さんを心配する家庭もある。家族からも疲れているから辞めろと言われていたメンバーもいる。「それでもこの仕事があるからいいんだ、生きがいがあるんだ」

■地域に必要な支援とは
この販売会を終えて、Uさんは息子から生きていて良かったねと言われた。「でも、本当に良かった。管理人さん(Sさん)に出会って、命が救われた。あの出会いがなければ、閉じこもっていたままだった」

 しかし、このままで良い訳ではないと皆口を揃えた。目が見えない、肩が凝ってできない、と参加しない人、参加したくても参加できない人がいる。また、他の仮設住宅がこのようにうまく行っている訳ではない。暮らしぶりの評判を聞いて、松川第一仮設住宅に入りたいという人も多い。まだ、閉じこもったままでいる人が多いのだ。
参加者の一人は94歳のお姑さんと二人暮らし。ずっと二人だとしんどかった。この会に参加するようになって顔色が良くなったと周りの人は言う。今、このように介護をするお母さん、お嫁さんのカウンセリングが必要となるのではないかとSさんは話す。介護をする方も、される方もつらい。華やかに見えるところには支援が行くが、こうした重いものには臭いものには蓋をするように行き届いていないことも多い。
参加したくてもできない人には、今布草履造りを進めている。手を動かす、何より喋ることが気分転換になるのだ。

「全国から送ってもらった着物にはさみを入れる時、ジーンとこみあげてくるものがある。小さいキレまで全部使う。母の思い出、姑さんの思い出、魂が宿っているから」

そごうでの販売会が新聞やテレビで報道され、手紙や電話が多数寄せられる。そして、また支援の輪が広がる。ボランティアの必要性を問うと、「支援してもらってばかりだ。本当にこのままで良いのだろうか。手放しではイベントの成功を喜べない。みんなのご支援があってこそ、甘えてばかりはいられない。自分たちがやっていかなければならない」と、お金が掛からない工夫、品質の向上に努め、自立を目指している。
相馬地域の「相馬二遍返し」には「相馬よいとこ 女の夜なべ 男後生楽 寝て待ちる」という歌詞がある。飯舘村の村民は皆働き者なのだ。生き生きサロンでは、3月にちんどん屋さんがボランティアに来てくれてライブをした。しかし、今後はボランティアに来てしてくれるのもいいが、今後は「自分たちがやる楽しみ」を提供したい。そうすると、見る人が必要となる。
「までい」には、「手間隙を惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時間をかけて」「じっくりと」と言った意味が込められている。までい着は第二次世界大戦の空襲の際に、東京から疎開してきた親類が来ていた「もんぺ」をモチーフにして作られている。東京から田舎に伝わって広まったものを、また田舎から東京に繋いでいきたいという。避難している彼らも自立しようと模索している。「してあげる」ボランティアではなく、彼らの気持ちを汲み、地域の人々の自立に繋がる支援・ボランティアが求められているのではないだろうか。
Posted by ほしくみこ
comment:1   trackback:1
[東日本大震災から
comment
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2014/04/23 21:43 | | edit posted by
comment posting














 

trackback URL
http://agreenqoostar.blog129.fc2.com/tb.php/651-b413a18e
trackback
飯舘村で避難生活を送るお母さんたちから聞いた話をまとめた文章です。皆さんから聞いた話をとりとめなくまとめたものだから、文章がなっていないところもあるけれど、三月に聞いた、彼女たちの生の声。なんか支援したい、ボランティアしたい人、3.11に対する感心が薄れ?...
| まとめwoネタ速suru | 2012.05.01 18:22 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。