全国の田舎大好き女子です。 普段は、田舎暮らしアドバイザーとかしていたりしていなかったり。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Posted by ほしくみこ
 
[スポンサー広告
風花とふくしまと誕生日


本日めでたく28歳になりましたホシクミコです。

エイプリルフールの人生初の結婚記念日は、旦那さんが仕事でデスマーチみたいな状況で、31日から帰ってこれず朝も晩も一人ぼっちで過ごしました。ごめんねとシュンとしてましたが、面白い話のネタになるので、笑い飛ばしてしまう自分。良いネタ提供ありがとう!今日も帰ってくるのやら。笑

喧嘩はもちろんしておりませんが、旦那さんには申し訳なかったけれど、誕生日は自分を産んで育んでくれた母に、会津に感謝をする日だと思ったと、やっぱり心配でいてもたってもいられなかったので、有休を1日貰って3日ほど、会津にある実家に帰ってきました。

新幹線は動いていないので高速バスで。
高速バスだから、福島の景色をずっと眺めながら帰りました。
いわきの方は通らないから、一番厳しい状況は見ていません。
けど、白河から福島に入って、郡山に抜けるまでの間、たくさんのブルーシートが掛けられた家をたくさん見ました。けれど、そのくらいで、何と言うか、いつもと変わらない風景。高速道路の道が悪いくらい。


だから、テレビで放映されている福島と、ものすごくギャップを感じてしまった。実家のある会津に着いても同じ。壊れた家もほとんどなければ、車もいつも通り行き交っている。

違和感を覚えたのはスーパーに行ってから。
テレビでは福島を何ブロックかに分けて、放射能の量をこまめに測定して放送している。会津や田村市や白河の数値は下手をすると東京とさほど変わらないところもある。
なのに、農業地帯である会津のスーパーからも直売所からも、福島産の野菜は何一つなかった。

孤立地帯は別として、圧倒的に福島には救援物資も、救助も入って来ない。
大熊町から避難してきた人たちから聞けば、報道されていないだけであの原発の爆発で何十人もなくなっているらしい。ただ、それは報道されていない。遺体が転がっている中で、救助に当たっているらしい。
原発があった大熊町の住民が炊飯器がないと言えば、東電はそれをすぐに手配する。けど、被害を受けたり避難したり、風評被害で救援の手が差し伸べられないところはその周辺地域だ。

いつもと同じような時間が流れているようで、違っていた。
ガソリンスタンドは落ち着きを見せていたけれど、夜に居酒屋などに向かう車は少ない。観光地にも人はいない。オンラインショッピングでも人気店の酒屋さんも精肉店も注文がなくなった。精魂こめて作った野菜も野ざらしに干からびて、規制からは外れている花の出荷も福島産の花は1本1円でしか売れない。

上っ面で見える景色は何も変わらないのに、放射能っていうものはじわじわと人の心をむしばんでいく。それは福島の人の心も、都会の人の心も。

原発事故だけじゃないんですよ。福島で起きていることは。
岩手や宮城と同じように、たくさんの家も壊れているし、たくさんの人が流された。遺体は目に入っているのに、収容されてももらえない命がたくさんある。
原発から30キロ以内の地域で、食料がいつ切れるか分からない地域で耐え忍んでいるおじいちゃんやおばあちゃんもいる。

そうした報道はほとんどされていない。
首都圏で報道を見ていた時もそうだけれど、福島に入った時もそれは同じだった。
むしろ原発の報道すら、東京より少なく感じた。

けど、福島の人は落ちついていた。買い占めることもなく、必要になれば買いに行く。
買占めっていう行為を私はほとんど目にしなかった。
ただ、みんな耐えていた。
ただ、誰かのためになることを探していた。

奥会津で被災者の受け入れをしている方のところに、実家に帰るがてら何か届けられるものがあればと電話をしたら、ガソリンと言われた。
・・・すみません、ガソリンを持っていくことができませんでした。
衛生用品も、米も出荷できないから野菜もまだまだある。
その日はいわきに自分たちが炊き出しに行くのだと、自分よりも少し年上のお兄さん方が笑った。
誰も入って来てくれないなら、自分たちでできることをやるんだと。
被災者の受け入れをしてくれているところに行きたいと話すと、母も米を20キロとか用意してくれていた。

みんなで集まってテレビを見る度に、やるせなさを感じて、みんなぽつりぽつりと声を漏らす。
「やるせねえ、何で福島には救済の手が伸びないのか」
「福島は日本から忘れさらっちゃのか」
その声は震えている。
誰かのためにありたいと思っても、こうして突き付けられる報道の偏りに、やるせなさを誰もが感じていた。

福島出身の西田敏行が、何故福島の人は怒らないのかと言ったそうだ。
けど、怒ったところで、今は何も変わらない。
ただ、耐えて、自分たちのできることをやっているのだ。


だから、3日ばかり帰った私に、泣く権利はないように感じた。

東京に母を呼びたいとは思わない。
呼んだところで、こっちでの暮らしの方がきっと辛い。コミュニティ意識が低いここは、きっとっ災害が起きている被災地よりもきっと生き心地が悪いのではないかと思う。


別れ際、声を掛けるべきか迷った私に気づいたのか、農協職員の母は言った。

「福島に救いの手が伸びないことが切ねえ。けど、私は農家のみんなを捨てて、他の地域に逃げることはできねえんだ」

帰って来た私の前で明るく努めてきた母が、最後に涙を流した。
けど、その目は絶望ではなく、春の選抜の高校球児のそれに似ていた。勝てなかった、けれど、諦めない、夏にリベンジしてやる。悲しさ、苦しさの中に、諦めない気持ちを感じた。

自分たちの仕事を支えてくれてきたのは、間違いなく福島でコツコツやってきた農家さんたちだ。その人たちを置いてはいけない。他者失くして自分の生活はないのだ。それを、みんな知っている。
母が特別な訳じゃなくて、地域というコミュニティの中で、信頼関係の中で生きてきた人ならば、誰だって感じ得るものだ。だから、それを素晴らしいものではなく、それが当たり前だということを認識できるように育ててくれた母に、家族に、地域のみんなに、会津に、福島に、感謝している。



母が言ったように、私も福島を見捨てることなんてできない。
誕生日に母に、福島に帰れたことをすごく嬉しく思う。
何時の頃からか、誕生日は祝われるものではなくて、産んでくれた母に、育ててくれた家族に感謝をする日だと思えて、母にありがとうを送る日になった。
今年は、母に、家族に、親戚に、友人に、地域の人たちにありがとうが言えた。
ここは私と言う人間を作って来てくれたところなのだと、ひどく実感した。


四月だというのに、桜の話題はほとんど入って来ない。
四月だというのに、ひどく晴れているのに、空気は肌寒かった。
別れ際、その青空に風花が舞った。

ひどく感傷的な言葉だけど、こんなことが起きてなお、誰かを想いやれる澄んだ心と目をした福島の人たちに青空を重ね、手で触れることはできない悲鳴のような祈りのような風花を重ねて、どうか消えないでと、それを掬いあげる何か術を絶対に見つけてアクションにうつしてやると決めました。


一時避難に関する情報提供はある程度まとめあげた。
さあ、次のアクションだ。

えっと、それは明日か明後日にでもとりまとめて報告できます。
ので、ちょいおまちを。


写真は大阪の職場のコがプレゼントとして送ってくれたバルーンです。
でっかい箱が届いてびっくり。あけてふわっとでてきてびっくり。
会津に帰ってものすごく考えさせられたので、すごく笑顔になれました。
こんなときこそ笑顔ですよね!!
嬉しかったぁ。ありがとうございます!!

2011040422230000.jpg


Posted by ほしくみこ
comment:0   trackback:0
[日記だよ
comment
comment posting














 

trackback URL
http://agreenqoostar.blog129.fc2.com/tb.php/576-736d17e4
trackback
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。